13 August, 2015

内面、表現、見せたい自分


 「写真にはカメラマンの内面が出るのですか。」というインタビューの問いに、写真家・作家の藤原新也が答える。
 如実に出ますね。自分の外部を撮っていながら自分の内面が出るということは、さまざまな外部の中に自分の内面と響き合う情景が潜んでおり、その情景を選ぶことによって自分の内面がおのずと表現されるということでしょう。
――朝日新聞 2015年8月12日夕刊 「人生の贈りもの 私の半生」より

 理屈としてはそのとおりだ。だが――藤原新也の意図するところから外れるかもしれないが、自分の内面を写し込もうと努力したり、自己表現が目的で写真を撮るのがいいのかどうかは、別の問題だ。私には、荒木経惟のこっちの方が合点がいく。
写真やってるヤツが「創造する」とか言うけどもそんなのダメ。三流なの。写真っていうのは創るっていうより相手から引っ張り出すんだから。
――『ふむふむのヒトトキ』 メディアファクトリー 2008年 (山内宏泰編著
『写真のフクシュウ 荒木経惟の言葉』 パイインターナショナル 2013年 より孫引き)

 また、“巨匠” よくぞ言ってくださった。
アタシはたとえば「表現する」とかって言葉は使ってない。相手を使って表現するんじゃなくて、表出する、相手の魅力とか本当のこととか嘘のことを引っ張り出す。アタシは決してクリエイターじゃなくて、クリエイトしているのは被写体なんだよ。
――『文藝別冊 荒木経惟』 河出書房新社 2010年 (同上孫引き)

 私なんかシロウトで未熟者だから、カメラ持ってライブハウスに行っても、かっこいい演奏聴けばテンション上がり、つまんないと感じ始めちゃったらもうアカン。面白い人が出てくれば面白がっていくらでも撮れるが、そうでもなかった時は「それなりに」な写真しか残らない。ワンステージ(バンド)ごとに写真の出来に明らかな差が出るのが、帰宅して深夜に一人パソコン見つめながら現像(RAWからJPEGに変換)を急ぐ時、自分ではわかる。私個人の音楽の好き嫌い・・・ならまだいいとして、写した相手への思い入れの強弱までもが、この写真を見た人に悟られてしまうのではないかしら。恥ずかしいなぁ・・・と、そこまで写真の表現力があるわけでもないのに、いらぬ恐れをいだいてしまう。

 「フォトグラファーXXの写真」じゃなくて、「ミュージシャン〇〇の写真」をたくさん遺したい。
 被写体の内面を表現したいからと、その眼を執拗に覗き込んだり、本人が隠しておきたいものを無理やりこじ開けるような、そういうスキャンダラスな撮り方は・・・・・・やってみようともしたけれど、“巨匠”のようにうまくはいかなかった。ステージ上でミュージシャンが「見せたい自分」を見せる瞬間を捉えてシャッターを切れば・・・・・・、今の私の腕では、たぶんそれが一番いい「ミュージシャン〇〇の写真」になるのだ。
 でも、「見せたい自分なんて特にありません。」という人が相手の時は、私みたいなシロウトの写真家はお手上げだ。