木村伊兵衛(1901-1974)について、写真に興味をお持ちの方には何の説明も要らないだろう。私こそほとんど知らず、教えていただかなければならない。
曰く、スナップ写真の名人、深追いはしない。巨匠ぶらず、「オツなもんですね」が口癖の、粋な江戸っ子。生涯ライカを愛用し、ライカを評して言った名言、「空気が写る」。女優のポートレイトを撮る時も、高級な仕立ての上着のポケットにライカ一台忍ばせ、助手も連れずに一人で出向いた・・・。重厚長大の土門拳との対照で語られることも多い。
木村伊兵衛の写真はあちこちに引用されるが、写真集などのまとまった形で見たことが、私、じつは一度もない。被写体をえぐるような、コントラスト強めの写真が好きなので、「ライカの木村」のやわらかな階調の、被写体への情愛に満ちたスナップ写真には、イマイチ財布の紐が緩むほどには心が動かなかっただけだ。
最近、ヨドバシカメラのポイントカード登録者に送られてくる宣伝誌に、「ライカの達人たち」という連載が新たに始まり、その第1回が木村伊兵衛だった。1929年8月、霞ヶ浦に降り立った飛行船ツェッペリン号の船長エッケナー博士の首に小さなカメラがぶら下がっていた、ニュース映画でそれを見た木村は翌年同じもの―ライカI(A)型を手に入れた・・・というエピソードも面白かったが、その後の木村のポートレイトの撮り方の詳しい記述に興味をひかれた。
それまでポートレートといえば、大型写真機と照明をセットし、静止したポーズで撮るものだった。それに比べライカの速写性と軽敏さは人物の一瞬の動きを生き生きと捉えてみせた。この写真展(1933年12月に銀座の紀伊國屋ギャラリーで開かれた文芸家肖像写真展)の直後に書かれたと思われるエッセイで、木村はそれまでのポートレートを「殆ど昔と変わらないでいる。吾々が家族の写真を出して見て、今の肖像写真と違う所を認めるのは、その風俗、流行の相違と焼付けのプロセスなどに過ぎない。(中略)現在広く行われている肖像写真は、如何にそれがしがない商売であろうとも、誠に気の抜けたビールのようなものである。乾板上にとどめられた生ける人形の姿である。魂の閃き出る写真の如何に少ないことだろう」と酷評する。そして、その原因は大型カメラにあると断言する。
「牛のようにのろい重々しい写場用カメラが瞬間的に閃き出る人間の個性なり性格なりを把握すべく、カメラマンの意思と神経のままに動くという事は殆ど不可能な事である。(後略)」
木村はこのポートレートを、当時最も明るかったF1.9のヘクトール73ミリレンズを愛用のライカII(D)型に付け、開放で撮影。被写体の近くには500ワットの電球を2個置いた。こうしてシャッタースピードを速くし、レンズ性能上ピントを合わせられる最短距離で被写体を捉えている。被写界深度が浅くなり、正確なピント合わせは困難であったが、木村はモデルとの距離を1メートルと決め、カメラでピントを合わせずに、シャッターチャンスを重視してモデルが前後した場合は、それにあわせて動くことにした。
それで初めて興味を持ち、『木村伊兵衛の眼・スナップショットはこう撮れ!』(平凡社 2007年)という入門書的な本を買ってみた。そして、報道写真家、肖像写真家、スナップ写真の名人として有名な木村に、舞台写真家という側面もあったことを知った。特に歌舞伎の六代目尾上菊五郎を撮った写真集が有名らしい。(まだ見たことはないが、『六代目菊五郎』 朝日ソノラマ写真選書17、1979年の本があるようだ。)
六代目菊五郎の舞台写真は1934年に鏡獅子を撮影している。本格的に撮影にかかったのは、36年からで39年まで続いた。3千枚を超えるコマ数を撮っている。写真は後世に残るからと非常にうるさかった六代目が、「自由に何処からでもお撮り下さい」と全面的に開放したことは、木村の信頼がそれだけ厚かったからに違いない。また、この本の最後の方のページで、『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』 (平凡社 1995年/平凡社ライブラリー 2004年)の著作がある三島靖という人が、「江戸っ子カメラマンの72年」を概観して以下のように述べている。
舞台写真の名手であった木村は、何を撮る場合でも、あえて “間” に向けてシャッターを切っていたのではないか、ということである。いわゆる “決定的瞬間” ではなく、むしろ幕間にこそ事物の輝きが存在するかのように。 (中略)
晩年の対談で、子どものころは芸者の荷物持ちか役者になりたかったという話題になったとき、木村はこう語っている。
それらはみんな煮つめていきますと何か自分のからだで表現したかったということなんですね。役者もからだの表現ですよ。ハナシ家も、自分のからだの表現ですよ。ところがそれがやっぱしうまくできないんですよ。できないから、それで写真をやろうと思った。写真というのはたとえば人さまのからだを撮って、自分の感じるままのからだの表現をしてみたい、理屈じゃなくて、何か、そういうものがあるんじゃありませんかしら。(「アサヒカメラ」1970年9月号)
私も自分を表現してみたいから、ステージ写真、ライブ写真で「人さまのからだを撮って」、夢中になっているのかもしれない。ライカのレンズは(夫がライカ好きで家に何本もあるが)私使わないけれど、この点でちょっとだけ、ライカの巨匠・木村伊兵衛に親近感を覚えた。
【2週間後の追記】
その後、三島靖 『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』 (平凡社ライブラリー)を買って読み始めたところ、上記で引用したヨドバシカメラ宣伝誌「ライカの達人たち」の記事は、ほぼこの三島靖の著書に依拠していたことがわかったので、書き添えておきます。
また、木村伊兵衛の六代目菊五郎の写真について、三島靖の上掲書に詳しく書かれていて、ライブ写真を撮る上で私にはとても興味深かったので、ちょっと長い引用になりますが、ここに追加しておきます。
では、彼ら(木村伊兵衛と土門拳)が戦前~戦中に熱心に撮った写真に、後年傑作とうたわれたものがあるのだろうか。舞台写真が、よく知られた例だろう。木村の歌舞伎、土門の文楽。・・・(中略)・・・現在のような感度のよいフィルムがなく、舞台照明だけで撮影するのが容易でなかった時代の写真であり、しかも写っているのは舞台という現実を模倣した空間にすぎないのに、歌舞伎俳優や人形が、みずみずしい生命力をほとばしらせながら目に迫る。・・・(中略)
実は、菊五郎は大の写真ファンであった。・・・(中略)・・・話題になりつつあったライカと当時としては感度の高いフィルムの出現で比較的手軽になった舞台撮影のマイナス要素を意識していたのだろう。役者がカメラの前でポーズをとってみせるそれまでの撮影と違って、本番の演技が、演ずる者の気づかぬまま記録される――撮影許可を求めようとする木村自身も感じていた「往々にして見受けられる撮影者の芝居に対する知識の不足から、その役々の本質を没却した写真を撮ったものが多く出るという弊害」に、菊五郎は神経をとがらせていたに違いない。息子の九朗右衛門の橋渡しもあってなんとか撮影は許可、となったものの、木村が撮ったフィルムのコンタクトすべてに菊五郎自身が目を通すことになった。
ところが、「そこで六代目が密着を見ているうちに、『こりゃあうめえ。面白えや』ってことになった」というのは、このとき木村の助手をつとめ、のちに歌舞伎撮影の第一人者となった写真家・吉田千秋だ。・・・(中略)・・・
菊五郎からは以後も、踊りを撮るなら足が画面から切れないように、などという注文が続いた。もともと芝居好きの木村は、この名優との共同作業を通じて、たちまちにして歌舞伎撮影のベストアングルをつぎつぎと身につけることができた。ただ、菊五郎がよしとしたカットから撮るべき瞬間をより緻密に学び感じとりながらも、たとえば「見得」ばかりを撮り集めるような、歌舞伎を型からとらえて記録する撮りかたはしなかった。歌舞伎の解説写真を撮る記録者であるよりも、むしろ演技の流れに身をゆだねながら自然にシャッターを切ってしまっているような木村の意識に共感しながら、今日それらの写真は見ることができる。同時にその共感は、木村と席を同じくする観客の視線と興奮にもっとも近いものだ。・・・(中略)・・・
「あんな時代(1937=昭和12年前後)で感材も入らなくなってきてたし、感度もまだまだ。露出計なんて見る人じゃないから技術的にも大変だった。そんな中で、押さえるところは押さえ、また微妙にはずす。ああいう写真は知りすぎるとかえって撮れないものだ」
と、さきの吉田はいう。歌舞伎の舞台や舞台裏を、最新の機動性ある写真カメラで撮影できるという、当時としては貴重な機会だが、木村はその撮影を通じて、「知りすぎ」ようとは決してしない。あくまで「菊五郎の持つ芸の深さを、写真でみても納得出来る最大公約数的なものを作る」という姿勢であった。木村は、尾上菊五郎という人物の記録でも歌舞伎の紹介でもなく、「菊五郎歌舞伎」の全盛を見ている者の興奮を撮りきっていたのである。
・・・(中略)・・・
ある人形遣いの回想に、土門らの名をあげて「あんなに毎日きてて、自分の仕事がすむとパタとこん。写真のお人なんて、そんなものかいな」とあるのを見た。たしかに木村も土門も舞台撮影をのちの仕事のすべてにしてはいない。が、現在歌舞伎や文楽を撮っている写真家も第一級と認める作品を残している。
・・・(後略。土門拳の文楽の撮影についてはまた別の機会に。)
――三島靖 『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』 (平凡社ライブラリー)より