Vivian Maier, an American amateur photographer who had been completely unknown until John Maloof (film-maker/historian) accidentally discovered a huge stack of nega-films taken streets and people in Chicago, NYC, etc, 1950s-'70s. Her self-portrait book fascinated me.
銀座4丁目角のギャラリーで、ヴィヴィアン・マイヤーの写真集2冊を見せてもらった。1950年代から70年代の終わりにかけてのシカゴやニューヨークで、職業は住み込みの家政婦をやりながら、全くの個人的な趣味としてストリート写真を撮り溜めていた、最近まで完全に無名だった天涯孤独の女性だそうだ。
『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』というドキュメンタリーフィルムが近く公開されることが先日の朝日新聞に出ていたので、ギャラリーの人とも話がはずんだが、彼女のセルフポートレイトに私はたちまち魅了され、翌日さっそくこの写真集を買ってしまった。
主にローライフレックスで、鏡の中や街のショーウィンドウ、時には店内防犯用カーブミラーや通りに停車中の車のサイドミラーにまでも映り込んだ自分の姿を、また地面に落ちる自分の影を写した写真ばかりで構成された、120ページのハードカバー。
セルフポートレイトって、やり過ぎると 「ナルシズムじゃねえの?」 と批判されるのかもしれないが、本当はけっこう楽しい。女の子ならなおさら楽しい。彼女が誰に見せるでもなく、密かにたくさん撮ってたセルフポートレイトを見てたら、「やっぱり撮っていいんだ、たくさん撮っていいんだ!」って感じで、「だよね、だよね〜!」って、素敵な気分になって、もっともっと写真を撮りたくなっちゃう。
Taken by Megumi Manzaki, using iPhone 6 front camera.
Photo © Vivian Maier,
Vivian Maier Self-Portraits, ed John Maloof, powerHouse Books, Brooklyn NY, 2013.
【1週間後の追記】
『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』 Finding Vivian Maier (John Maloof 2013 film) を渋谷イメージフォーラムで見てきて・・・・・・映画が期待外れだった、というのでは決してなく、「彼女の人生は、いったい何だったのか・・・」と、1週間前とはまったく違う、暗然とした気分になった。
ヴィヴィアン・マイヤーの埋もれた写真の発掘者ジョン・マルーフのインタビューに答えて、写真家ジョエル・マイロウィッツは、ローライフレックスを使った彼女の撮影テクニック、構図のうまさ、物や人間の本質を見つめる観察眼を絶賛し、彼女は行きずりの人々の人生を一瞬で見抜くことができる、洞察力に優れた写真家だったと推測する。だが現実のヴィヴィアン・マイヤーは、自分のことを決して語らず、あまりにも変わり者(エキセントリック)、偏屈で偏執的で扱いにくく、対人関係に決定的な難があったと思われる孤独な人だったことが、映画の後半、生前彼女が世話した子供や雇い主(彼女は住み込みの家政婦・子守で生活していた)、彼女と接点があった人々へのインタビューから明らかになってゆく。雇い主の子供をスラムや事故現場に連れ歩いたり、写真を撮るのに夢中になって子供を道端に放置したり、1970年代以降になると、子守の彼女に虐待されたという複数の証言まで出てくる。
子守をしながら1951年から撮りだめた写真は15万枚以上。そのほとんどをネガや未現像のフィルムのまま箱やカバンに詰め、他人に決して見せなかったのはなぜなのか。「人間嫌い」の故だったのか・・・? 「今のように脚光を浴びることを、彼女は望まなかったはずだ」と、かつて彼女が非常にプライベートな女性だったことを知る人々は、彼女が秘していたものを掘り出して暴露し、今また彼女自身のことを掘り返そうと聞き回るマルーフの行為を責めるかのように、そのインタビューに答える。だが一方でマルーフは、彼女の血縁的なルーツを辿るうち、彼女が信頼を寄せた現像屋にプリントを依頼しようとした形跡を突きとめる。遺された写真はどれも、他人に見せることを意図して撮ったと思われるクオリティで、彼女は自分の写真のクオリティを知っていて、もし彼女の意に完全にかなう方法さえ見つかっていれば、彼女は写真を発表したかったのではないか・・・?
ヴィヴィアン・マイヤーを世に知らしめなければならないという使命感に燃え、マルーフはフィルムをデジタル・スキャンし、その一部を自分のブログやフリッカーに載せてみると、すぐに好反応があった。それで個人の手には余るこの大事業を引き継ぐ組織を探して、MOMAや写真界の大物にも照会したが、「写真家自身の手によるオリジナル・プリント」にしか興味を示さない彼らに拒絶される。(写真ビジネスにそういう一面があることを、私は初めて知った。)これは自分がやるしかないと腹をくくったマルーフは、オリジナル・プリントを作って展示会をして回り、2013年には写真集2冊を出版した。その印税も、展示会で売れたオリジナル・プリントの収益も、ヴィヴィアン・マイヤーが生きていれば(人知れず2009年没)全部本人が受け取るべきだったと・・・・・・。
ヴィヴィアン・マイヤーの写真は今、彼女自身の「公式ウェブサイト」で、誰でもタダで見ることができる。
写真家の生き方が写真に投影されるとは、必ずしも言えることではない。
ヴィヴィアン・マイヤーの場合、セルフ・ポートレイトですら、だった。
ミュージシャンと彼らの曲との関係も、複雑だったり、あるいはまったく断絶してたり、
他人にはわからないものかもしれない。
いくら曲に感動して撮ったステージ写真でも、そこには
もしかしたら、なんの人格も写っていないのかもしれない。
(だから フォトグラファーは 思い上がってはいけないのだ。)