100 FEET acoustic live at Outbreak, Yotsuya Tokyo, 08 April 2013.
- 大井貴之 Takayuki O.E. (guitars/vocals)
- 上田周一 Shuichi Ueda (djembe)
大口径レンズ Contax Planar 85mm/F1.2 MMG (1992年ドイツ製)を昨年12月の購入以来、アコースティックライブの撮影に使ってみるチャンスがようやく訪れた。
このレンズ、ロックの描写には向いてなかったんでは?と思っていたら、やっぱり、アコースティックの方が描写がしっくり来る・・・。
というか、これで撮るべきは、 「人の顔」だったのだ。
ポートレイト。被写体は申し分ないのに、難しい・・・。
(このセッション末尾、写真の後に後日談とポートレイト私考あり。)
Using Carl Zeiss/Contax Planar 85mm/F1.2 single focal lens with Sony NEX-7 APS camera.
All photo copyright © 2013 Megumi Manzaki.
62 photos taken by Megumi in this session available.
http://www.flickr.com/photos/megumi_manzaki/sets/72157633196956413/
ポートレイト向きのレンズで撮るにしても、ライティングがものを言う。顔の正面からベタッと照明が当たる時は最悪だ。ライブハウスのステージは、いろんな角度からいろんな色と強さの照明が当たる。しかもめまぐるしく変わる。店側のエンジニア任せで撮る側ではコントロールできない。
(ステージ照明のままならなさについては、“巨匠”木村伊兵衛も 『前進座舞台写真集』(研光社 1966年)の巻末、自身もカメラ好きだという河原崎長十郎らとの対談の中で、「意地悪い」「写真屋泣かせだ」とさんざん愚痴っている。ハハハ・・・)
今回は照明の当たり具合のタイミングを選んで、良い光が来たなと思った時だけシャッターを押すようにしてみた。・・・そういうことも、写真学校行ってないし誰も教えてくれないから、自分で経験積むまでわからなかった。
ロックのステージでは、被写体の動きや表情が「ここぞ!」という時、光の状態が悪くても、どうしてもシャッターチャンスを逃したくないという気持ちが先行してしまう。その点、アコースティックの方が落ち着いて撮れる。
「ポートレイトが撮れるようになりたい」と、まじめに考えるようになった私は、「肖像 視線の行方」という写真展の開催初日に行ってきた。(東京工芸大学中野キャンパス内 写大ギャラリー、2013年4月15日から6月9日まで。)
ロベール・ドアノーの「ピカソ」、ユースフ・カーシュの「ヘミングウェイ」、土門拳の「志賀直哉」、「川端康成」、「升田幸三」、木村伊兵衛の「高峰秀子」、田沼武能が撮った「木村伊兵衛」・・・。そういった肖像写真の古典ともいうべき有名な作品をもまじえて、白黒のオリジナルプリントで約40点。静寂な小部屋にほとんど私ひとり、独占状態で1時間ほどかけて対面してきた。
また2月初めには、アーネスト・サトウ写真展「Light and Shadow」(浜松町 ギャラリー916)で、吉田茂、フルシチョフ、田中角栄、大鵬、カザルス、バーンスタイン、小野洋子・・・、さらに多くの著名人のポートレイトも見た。
土門拳(1909-1990)は、ポートレイトについてもこんな難しいことを書いている。(『フォトアート』1957年/『写真作法』 ダヴィッド社 1976年)
プロは私的関係に発して撮ることはない。つねに必ず社会的な理由に発して、特定の個人を対象とし、その社会的な理由に裏打ちされてカメラアングルなりシャッター・チャンスなりを決定して撮る。そしてその特定の個人の風貌なり行動なりを撮ることによって、今日の時代の一つの主題なり傾向なりを代表する一人の小説家、美術家、政治家、科学者というものを浮彫りする。それは特定の個人なり個性をとおしてよりおおきく広い集団や思潮を象徴する任務を持つ。あるいはその人にも見られると同時に君にもぼくにもある普遍的な人間性をえぐりだすという任務を持つ。
・・・(中略)・・・もし優れたポートレートを撮ろうとするなら、アマチュアといえども・・・(中略)・・・自分の奥さんやこどもを対象としても、一切の私的感情をはなれて、客観的に突放してみるだけの眼を持たなければならない・・・(中略)・・・つまり夫として父としてではなく、一個の写真家のものとして対決するのである。
土門拳は、晩年、「もう撮るに足る人間はいない。花を撮りたい。」と言い始めていたという。(3度めの脳卒中で1979年に倒れて目覚めぬまま、1990年に他界した。「晩年」とはその最後の発作の前のこと。)
被写体が仏像であれ人であれ、その正面に大判カメラを据え、「威圧的で重々しい“写真作法”によって」、土門は自身の激情とエネルギーを1枚の写真に写し込めようと挑みかかったらしい。「だから肖像写真を撮る場合、相手がその作法に応ずるに足る一流の人物であり、撮られるのを嫌がる人であればあるほど、対決の成果には満足いく手応えがあったにちがいない。」(引用は 三島靖 『木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯』 平凡社 1995年 より)
「撮るに足る人間はいない」なんて、そんなこと、少なくとも私には死ぬまでありえないと思う。だいいち被写体と「対決」など、私にはほとんど無理。どちらかといえば、寄り添って撮りたい。
撮るに足る人間かどうかは、被写体についてではなく、まず、撮らせてもらう私の側が問われるのだと思う。
もしライブよりも写真の方に興味をお持ちでしたら、ライカの巨匠 木村伊兵衛のポートレイト、舞台写真についてもお読みください。写真よりもライブの方に興味をお持ちなら、ライブハウスに足を運んでね!
締めは、最近読んだ 荒木経惟 『いい顔してる人』 (PHP研究所 2010年)から、アラーキーのこの名言!
何かにかけているときの顔は美しいよ、ドキッ!
美男美女なんてものを軽々と超えた美しさだ。
逆から言えば、一生懸命にやっていて顔が美しくならないなら、
その仕事は向いてないってことなんじゃないの。