04 March, 2015

Photographing as they are.


 私が 「普段はロックバンドの写真を撮っています。」 と自己紹介したら、初対面のその人は笑い出し、「ロック? ロックって、ロン毛で、アクションが派手で、照明もギラギラのあれですよね?」
 写真がきっかけの会話だったから、ヴィジュアル・イメージ先行の話になったのだろうが、実際にロックの音楽性については、語るほどの印象を持ち合わせておられなかったのかもしれない。「はい、ロン毛のお兄さんもたくさん撮ってますよ。」見た目に関しては否定せずに、私も一緒になって笑った。
「なんでまた、ロックなんか撮ることに?」
「私、ロックが好きなんです。」
 私はアイフォーンを取り出し、自分が撮ったロック・ミュージシャンの写真を何枚か見せた。ポートフォリオ代わりにアイフォーンに入れて持ち歩いているのだ。極彩色のアクション写真じゃなかったので、意外だったに違いない。ミュージシャンの表情や楽器を弾く手元をアップで切り取った、ほとんどが白黒の私の写真は、ロックに対する彼女の先入観の一角(ヴィジュアル先行の印象)に、ちょっとは揺さぶりをかけたか。「へぇ~」と感嘆の声を上げながら私のアイフォーンに見入ってくれた。
「クラシックやジャズの写真だと、写真を褒めるのに、『写真から音楽が聴こえてくる』っていう言葉があるんです。私はまだ全然ダメですが、ロックでもそういう写真を撮りたいんです。」

 ロック写真は---時代を証言する作品として、写真集になって公共図書館に納まるようなほんの少しの例外はあっても---ロック・ミュージシャンを写した写真の多くは、誰でも聴いたことがあるようなヒット曲を持つスターであるとか、あるいはそのバンドやアーティストのファンにとってしか、「その写真からあの曲が聴こえてくる」なんてことは滅多にない。写真単独での芸術的な価値は正直あまり問えないような、それこそヴィジュアル先行の消耗品的なコピーがメディアに溢れていないだろうか? 写真はしょせん被写体のコピーだ、という考え方を差し引いたとしても。
 コマーシャリズムの枠からはみ出し、小さなライブハウスでインディー・ミュージシャンを撮り続けることがゆるされる、アマチュアだからこそできるやり方がある。決して消耗品ではない生身の人々を見つめ、彼らの採算度外視の音楽と、同時に、写真そのものの価値を追い求めることができるからだ。「名も知らないロック・ミュージシャンが演奏する、聴いたことがない音楽」が、もし私の写真から聴こえるようになれば、と、「ウブな望み」を抱いたまま・・・。

 私だったら、KISS だってその素顔を覗き込もうと白黒で撮ってみるだろう。(ありえん話だけど。)

iphone photo 573: 1985 - as they were. 03 Mar 2015
iPhone photo by Megumi, picture color processed