23 March, 2015

Davy Graham


Corinth (Κόρινθος) Greece, Aug 2012. 02-035
Corinthian
Using Carl Zeiss/Contax Planar single focal lens with Sony NEX-7 APS-C camera.
Photo copyright © 2012 Megumi Manzaki.


 死ぬまでに行ってみたいと思っていた場所が、まだまだ残っている。
 1990年、北アイルランド紛争下のベルファストに行った。2001年、同時多発テロ直後のニューヨークに行った。ギリシャに行った。インドに行った。ネパールに行った。中国領チベットに行った。ラダックに行ってインダス河上流で、標高5000メートル超の峠越えもした。だがインダス河の下流域、都市文明揺籃の地パキスタンにはまだ行っていない。古代遺跡の宝庫シリアやヨルダンにも、今はとても行けない。そして先日の博物館銃撃事件、チュニジアにも行きにくくなってしまった・・・。

 私がチュニジア、アルジェリア、モロッコ・・・北アフリカの国に行ってみたいと思い始めたのは、もう10年近く前、伝説的なギタリスト、デイヴィー・グレアム Davy Graham の She Moved Thru the Fair の1960年代の2種類の録音を聴いてからだ。

 最近、家にあったデイヴィー・グレアムのアンソロジー盤CDに付属する長いライナーノーツ(輸入盤オンリーなので英語だった)の日本語訳をネットで発見し、あらためて読み直す機会があった。
 ギターをやる人はご存じのように、1960年代の若いギタリストの課題曲とまで言わた"Angi"の作者、また、DADGADチューニングの発明者だと言われ、ブリティッシュ/アイリッシュ系ギタリストには影響力の大きい人だが、あらためて知って驚いたのは、表舞台で活躍したのはおよそ23歳から30歳までのとても若い短期間だったということだ。
 そしてスカイ島出身のゲール語教師だった父と英領ギアナ出身の母から生まれ、18歳で単身ギリシャや北アフリカに渡り、バスカー(ストリート・ミュージシャン)をやったということ。北アフリカ・・・。"A Taste of Tangier"のサブタイトルを持つエキゾチックなインストゥルメンタル曲も発表しているので、モロッコに滞在したことは間違いないが、アルジェリアやチュニジアにも行ったかもしれない。そこで現地の音楽を吸収しつつ、さまざまな街角で人々の好みをとり入れながらギターの腕を磨いたことだろう。

 She Moved Through the Fair はもともと作者不詳の古いアイルランドの歌で、ピート・シーガー、アン・ブリッグス、フェアポート・コンヴェンション等により1960年代英米のフォークシーンに広まった。若い娘が自分の花嫁衣裳用の布を買いに市場に出かけるが、その帰りに死んでしまい(誰が彼女を殺したかはあえてぼかされている)、幽霊になって婚約者の枕辺に現れ、"It will not be long, love, till our wedding day." と話しかける・・・という内容の恋歌、あるいは英国植民地支配下のアイルランド民衆の怨み歌だ。
 だが、歌を取り去ってギター曲になったデイヴィー・グレアムのこの録音を聴くと、スパイスの効いた北アフリカ風味の音がする。(ラーガは本来インド音楽の旋法なので、ただ個人的な印象からこれを北アフリカ風と呼んでよいのか、楽理知識のない私にはわからないのだが。)もともとの土俗的な歌詞がフォークソング/アイリッシュ・トラッド/ケルティック・ミュージックのジャンルで今なおエスニックな情感たっぷりに歌い継がれるのとは別に、デイヴィーのエキゾチックなDADGADチューニングの音を得たギター・ヴァージョンは、バート・ヤンシュやジョン・レンボーン、そしてヤードバーズの White Summer に、レッド・ツェッペリンの Black Mountain Side に、 Over the Hills and Far Away にと、ロックというもう一筋の道を印象的なモチーフで彩った。


Davey Graham - Medley: She Moved Thru' the Bizarre/Blue Raga (YouTube posted by zenfreestyler)


David Michael Gordon Graham
26 Nov 1940 - 15 Dec 2008

 一匹オオカミのデイヴィーは、音楽が導く所ならどこへでも向かう旅人だったと言われる。
 CDジャケット等の写真で見るデイヴィー・グレアムは、頭髪と口髭を短く整え、帽子と仕立ての良いスーツを小粋に着こなし、いかにも育ちの良さそうな風貌だ。そして友人とその子供たちには旅先の土産を忘れず、ギターを携えて来る者には自分のテクニックを惜しみなく教える、気前のいい好人物だったとも伝えられる。
いつも自発的な体験を追い求め、気前がよく、偏見を持たないデイヴィ・グレアムは、キャリア・プランなど持っていなかった。有名な話に、彼はかつてシドニー・オペラハウス出演の抜擢を逃したことがあった。その時彼はインドのゴアにいる姉を訪ねるために飛行機を降りてしまった。時間、行動、金に対していつも並外れて寛大だった---多くの友人たちは、彼が若者と何かを議論し始める時のことを回想する。主にギターと詩についてだった。ギタリストたちは、何かを身につけることを主張していた彼のことを思い出す。ブラーのリードギタリスト、グレアム・コクソンは、地元の理髪店でスパニッシュギターの即興レッスンを受けた時のことを回想する。
David Suff, Jul 2009 (from liner notes of A Scholar And A Gentleman 2CD)

 だがドラッグの問題を抱えていたデイヴィーは、1970年以降はほとんど演奏活動をしなくなってしまったという。